ピアノを弾くときも 書道をするときも
ちょうど楽譜を見たり鍵盤を見たり半紙を見たりする位置が
一番見えづらいということが起こっていて
何とかしなければと思い、眼鏡を新調しました。
以前は、運転の時のみ眼鏡を使用していたのですが、
眼鏡の度数を合わせに行って分かったのは、両目のバランスも悪ければ、
ちゃんと見ようと、焦点を合わせる機能が、らしく
しばらく続けてかけてくださいと眼鏡屋さんに言われました。
乱視があるので、ちょっと酔うような感覚があってしんどいのですが、ちょっと慣れてきました。
ところが、眼鏡をかけていないときに
よく見えていないことによって得ていた恩恵にも気づいたのです。
それは、
子どもたちの顔がそこまで鮮明に見えないからこそ、
醸しだす雰囲気や、声のトーンで、
子どもたちの心を読み取ろうと常に心掛けていたということと
特にピアノを弾くときに
見えていないからこそ、想像力が働いたり、楽譜を覚えていたり、音楽のニュアンスが鮮明に聞こえてきたりしていたのだということに気づいたわけです。
また、人の目は、勝手に遠くを見る時。近くを見る時に、焦点を合わせて、微調整するのですが、
眼鏡で矯正した場合、その眼鏡に慣れるまでその微調整がうまくいかず、ピントが、じわ〜っとあってくるという感覚を何度もしました。
ピントを合わせようと意識することによって、ピントがあってくる、
それは、私の目の筋肉とかが、勝手に働いて、
合ってくるのだと思うのですが、
なんか物理的に見えるか見えないことと同じように、
誰かのことを見る時に、見えていないくせに、見ようとしていなかったのではないかと、ふと思い返したのです。
また、眼鏡が曇っていると、ぼやけて見えます。
眼鏡がサングラスだと、その色に見えます。
そんなことを、私は無意識に人を見る時にしていたのではないか?そんなことも思いました。
先入観で、人を判断したり、
色眼鏡で、そう見えたことを、信じてしまったりしてこなかったか、
そんなことを改めて思い返すとても大切な機会になったような気がしています。
体の不具合は、マイナスなことばかりではありません。
それは、もしかしたら、何かに気が付くための
大切な機会になるのかもしれませんね。