例えば、書道教室で、清書を書き上げて日本習字に出品するというのは、結果です。
出品したら、その後、前月の級から、進級できたかどうか、子どもたちが、一番気になるところかもしれません。
また、例えば、ピアノの発表会や、コンクールなどで、
上手だねと褒めてもらったり、入賞したりすることは、これまた結果です。
学校や塾などで、子どもたちが求められている成績も、
テストをして、いい点を取れたかどうか、偏差値がどうか、進学できる学校はどこか、受験で、合格するかどうか、
そのすべては、結果です。
でも、てらこやで子どもたちを育てていく過程において、何よりも大切に思っているのは、
コンクールや発表会に向けて、どんな気持ちで、
どんな風に取り組んだか、
どんなやり方をみつけようとしたか、
くじけそうになった時に、どうやって自分を鼓舞したか、
そんなことを見つけて、認めて、一緒に喜びたいと思います。
例えば、何級、何段になりたいと思ったときに、どんな風に練習したらいいか、
私は、できるだけ、自分で考えて見つけてほしいと願っています。
手取り足取り、こうしてああしてと講師がお膳立てをすれば、早く進級していくかもしれません。
でも、1時間のうちに、どんな練習をしたら、次に書く字は、よくなるだろうと、
思い悩むことに価値があると思うのです。
ピアノでは、おうちでの練習が、上達には不可欠ですが、
その中身を自分で考えて、いろいろやってみるような力を育てたいのです。
例えば、楽譜が読めないという子がいたときに、
お母さんが全面的にずっと手を貸していて、小学校高学年になって、
「全然楽譜が読めてなかったの?」と、気が付くような時があります。
来週の先生とのレッスンの時に弾けるようにしていかなければ!という親心でもあると思うのですが、
それは、子どものためには残念ながらなりません。
コンクールで、当日たまたまうまく弾けちゃって、
その日のメンバーの中で、ちょっと上手な方だったから、入賞してしまったというような時より、
いっぱい考えて、いっぱい悩んで、いっぱい練習して挑戦したコンクールだったのに、
どの賞にもかすらなかったなんて時の方が、よっぽど
子どもにとっては財産になります。ひょっこり入賞したような子は、間違ったプライドが身についてしまったりするときもあります。
ピアノの場合だと、小さいころに、とてもよくできた子がずっと上手とは限らない場合があります。
だから、私は、特に一見よくできる子に対しては、
どういう努力をしたのかというところを必ず評価するようにします。
上手だったら「もっとできるんじゃない?」というような、
次の課題をクリアしたいという貪欲さを忘れないでほしいからです。
子どもたちは、
結果で判断される場面がとても多いです。親も、ついつい、成績はどうか?とか、進学できる学校はどこか?とか、
誰かとどっちがどうとか?
そうではなくて、子どもたちが、
どういうプロセスを踏んで、どんなことを学んだか、
どんな感情を経験したか、それを、しっかり認めたいと思っています。