お母さんとして、子供の幸せを願うのは当たり前のこと。
私も我が子にも、それだけを一心に願い、子育てしていました。
おかげさまで、今は、二人とも成人し、社会人になり、親としての役割と責任からは、解放されたと思っていますが、
時々いろんなことを思い出すことがあり、ちょっとブログを書いてみようと思いました。
先日、息子の母校 大阪府立淀川工科高校吹奏楽部のサマーコンサートに行ってきました。
息子は、OB楽団の一員として出演していました。
私自身も学生時代短い間でしたが、吹奏楽部で、ピアノとはまた違った音楽の楽しみ方を覚えたものでしたが、
息子が中学に上がるとき部活を選ぶ段階で、
なんでもいいと思っていたのだけれど、結局、息子は、吹奏楽部を選び、ホルンを吹き始めました。
私自身、学生時代に経験した、吹奏楽の世界はとても楽しいもので、
結局社会人になって、ヤマハの先生として音楽漬けの毎日を送る中でも、
週末にOB楽団に足を運んで、現役の演奏会に出させてもらったり、仲間と一緒に音楽を作るのはピアノを弾くのとはまた違った意味で、
それはそれは楽しいものでした。
だから、息子にも、吹奏楽を楽しんでほしい、仲間とともに何かを作り上げる楽しみを味わってほしい、と願っていました。
そんな時に、
たまたま、同じ県のとても優秀な成績を残している中学校の吹奏楽部の演奏を聴く機会に恵まれました。
宝塚の中山五月台中学という、吹奏楽コンクールでは兵庫県代表として毎年、全国大会に出場している学校です。
そこの演奏を聴いたとき、音楽をやるものとして、また、親としても、
この学校と、うちの息子のやっている吹奏楽は、全く別物だと、ガーンと何かに殴られるような衝撃を受けました。
公立の中学なら、近所の小学生が、近所だからと通っているはず
うちの息子の学校と、条件は一緒のはず、
なのに、この子たちの過ごす3年間と、息子の過ごす三年間は、天と地の差があると思いました。
息子も一緒に聞きに行っていたのですが、私が感じるほどの衝撃は受けていないまでも、全然違うのは分かったみたいで、
自分の学校の仲間とも、同じくらい頑張りたいと思ったようでした。
でも何でもそうかもしれませんが、やっぱり、指導者の影響は大きくて、
子どもがいくらやる気があっても、先生次第で、全然思ったようにはいかないと感じた息子は、
もっとやりたいという気持ちが抑えきれない状態になっていました。
なぜなら、私が学生のころから憧れていた淀川工業高校のことを語っていたからです。
発売されているCD、DVDなどを一緒に観て、
こんな風に音楽ができたら、楽しいだろうなあという想いが止められなくなり、
結局、高校受験で、大阪府立の淀川工科高校に挑戦することになりました。
兵庫県民の息子は、本当なら、大阪府立を受験することはできません。でも、
親としては、なんとしてでも、いけるように段取りをしたいと思いました。
尼崎から、淀工にいった子はいないと思われました。
たまたま中三の時の担任の先生が理解があったこと、引っ越しをするということが可能だったこと
そして、どうにか学力も間に合ったことなど、
息子の強い想いで、晴れて淀工の吹奏楽部員になれたのは、今から9年前です。
淀工での三年間は、たぶんこれから先もないだろうというくらい、楽しく、濃密な、
それはそれは、これ以上ないくらいの努力をした三年間になりました。
最初の一年は、憧れの淀工に入れた喜びと、本当に音楽の好きな仲間に囲まれる幸せをかみしめて過ごした、恵まれた一年でしたが、
次の年から、
自分の力のなさをとことん思い知らされたり、
30年にも及ぶ、日本一という肩書を持った吹奏楽部の一員であることのプレッシャーに負けそうになるとか、
顧問の丸谷明夫先生が求めてくださる、最高レベルの音楽を作るために、寝ても覚めても音楽漬けの毎日、
私が見ていても、こんなに頑張るチャンスは今後二度とないだろうなと思うくらい、
尋常ではない努力を課せられる日々を過ごしました。
そんな日々を、久しぶりに思い出すことができた今回のサマーコンサート
三年前の暮れ、丸谷明夫先生は、天国へ召されました。
淀工吹奏楽部は、新しい体制になりました。
多分あの時に、息子が経験したような、死ぬほど努力をするというような環境ではなくなったと思われます。
ほのぼのと音楽を楽しんでいる感じがありました。
社会的にも、学生の部活は、週に1日は、休まなければいけない決まりや、終わる時間が決められていたりと、
数年前の流行り病の騒ぎから、制約が増えたことも理由の一つだと思います。
でも、息子たち、淀工の2000人を超える丸谷先生とともに、暑い夏を過ごすことができた部員が経験した、
自分の限界まで努力するというようなことは、もうできないのかもしれないと感じました。
それは、指導者としても、そこまでやらせるのがとても難しいからです。
でも、うちの息子の、自分がここまで頑張れたんだという勲章のような経験は、
自分の誇りとして、ずっと自分自身を支えてくれるものとして残り続けるだろうと思います。
親としてもこんな有難いことはありません。
先生がお亡くなりになって、もう二度と、あの環境は戻ってこないんだとわかったからなおさら
その価値は、大きくなると思われます。
今の社会の風潮として、なんとかハラスメントというような問題意識が根深い中、
なかなか、そこまでの環境を作るというような気概ををもって指導に当たる指導者は、少なくなっていると思われます。
毎日、ぎりぎりその日の12時までに帰ってくるなんて、今の時代、そんなのが許される部活なんて、ありえないと思われます。
でも、うちの息子は、夜中の11:30頃に帰ってきて、朝6:30頃には家を出る毎日を過ごしていましたし、授業中は昼寝をしていたし、
毎年留年の危機でもありましたが、それでも、
あの時、あれだけ頑張ることができた仲間と先生と環境に恵まれたことは、一生の財産だと思っています。
当時の春の全国吹奏楽大会の前日の浜松駅前のプロムナードコンサートの映像張り付けておきます。
息子は、ホルンで、左から3人目で、しっかり映っています。
丸谷先生に
、
「お前の音はええなぁ」
と声をかけてもらったことを嬉しそうに何度も何度も語る息子を思い出し、
ちょっとうるっと目頭が熱くなった母でした。